昼間の日差しが暖かくなってきましたね。
今回は、またまた「どうする家康」に関係する、三河一向一揆の舞台となったところを巡ってみました。
三河一向一揆とは「家康三大危機」といわれるうちの一つとされています。
最初に本證寺に足を運んでみました。
到着すると、テントがあり案内のガイドをしていただきました。
ドラマでもありました本證寺は現在の安城市にあります。本證寺は真宗大谷派の寺院で、鎌倉時代後期(13世紀末ころ)に慶円によって開かれました。そして15世紀後半には、本願寺の蓮如の教化によって浄土真宗の高田門徒から本願寺門徒
(一向宗)に転じました。
この頃から、三河地方の本願寺門徒における寺院の組織化が進み、後の上宮寺(今の岡崎市上佐々木町で石工団地に近い所)、勝鬘時(今の岡崎市針崎町で藤田医科大学岡崎医療センターに近い所)とともに三河三か寺とされました。そして16世紀の前半になると、二重の堀と土塁が築かれ、城郭寺院とも呼ばれていました。
現在も堀と土塁の跡が残っていました。7月頃になると内堀に蓮の花が咲き多くの観光客が来場されるようです。現在は、ハスの咲いた跡が残っていました。
三河一向一揆は、寺の不入権(租税免税と治外法権)侵害が発端となって、他の上宮寺と勝鬘寺とともに徳川家康と争いました。家康の家中にいる数多くの門徒武士が一揆方に与しました。半年にわたる戦いの後、家康は勝利をおさめ、一揆は終結しました。
翌年にいったん和議が結ばれますが、家康からの改宗命令を拒否した為に坊主衆は領国から追放になり、建物も壊されました。
ドラマでも出てきました空誓も現在の豊田市へ逃れました。
その20年後に家康の叔母石川妙春尼の尽力もあって、一向一揆の罪は赦免されました。天正13年(1585年)の徳川家康黒印状では、本證寺は施設である「道場屋敷」の保証と寺に属した「家来三十間」(家来=外堀に囲まれた「寺内」の住民)の租税免除が認められました。
江戸時代になると三河三か寺は、本山-中本山-末寺の中本山の地位を与えられて末寺を取りまとめる大寺になっていきました。
現在の本堂は、三河一向一揆(永禄6年 1563年)の後に壊されていますが、100年後の寛文3年(1663年)に現在の建物が再建されました。
また、外堀は改修されて現在は民家が立ち並んでいました。
上宮寺にも行ってきました。
ここは、近年に再建されて石工団地内だけに石を多用されたモダンな建物になっていました。
3月8日の中日新聞の西三河版に本證寺の御朱印帳が完成したとの記事があり、多くの観光客が集まっているようです。
無敵のイメージがある家康も家中統制で苦しめられたことがよく理解できました。